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継続は力なりと思う看護師の日記

思えば長く続けている看護師というお仕事、研究、そのほかについて書こうと思います

親を看取るということ 父の看取り

                            

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私の父は50歳代で亡くなりました

肺癌でしたが、癌だとわかった時には転移していて、癌の診断から亡くなるまで3か月でした

癌診断の3か月前に会社の健康診断で異常なしでしたから、急激に進行したのだと思います

 

実家は地方都市にあって、私を含め子供たちは県外で働いていましたので、両親は二人暮らしをしていました

私はその頃東京の大学病院に勤めていて、希望していたCCUを有する循環器内科に配属になって、忙しいけれど仕事にやりがいを感じていました

 

「お父さんが病院を受診したら、家族の方だけで病状説明を聞きに来てほしいって電話があったんだけど、癌とかだったらどうしよう、一緒に話を聞きにいって」

と母親から電話があったので、お休みをとって帰郷しました

 

父親は「体のだるさがとれない、肩こりがひどくて痛い」というので、実家から自転車で15分くらいの市立病院を受診していました

病状説明時に主治医には、看護師をしています、と伝えると、画像をふくめ検査結果を見せながら詳しい説明をしてくれました

肺癌です、と最初に言われましたが、胸部の単純写真を見た瞬間に、これは治療のしようがないな、とわかるほどで、癌は両肺で、溶骨性の骨転移も複数個所にありましたし、胸水もありました

ステージⅣで、手術、放射線は適応外、抗がん剤も副作用のほうが心配だが、使用するかどうか本人しだい、使用する、しないにしても余命3か月程度ではないかという説明でした

 

今度は私も同席して父への病状説明をしてもらおうと思ったのですが、母が病名の告知に反対をしました

父は内面はとても弱い人間で、癌だと知ると自暴自棄になるのではないか、そうなった場合、自分は看病する自信がない、余命3か月というなら癌だと知らせないでほしい、というものでした

 

けれども、私は癌の専門病院もしくは自分の勤める大学病院に父を転院させたいと考えていたし、病状説明を聞いた後ではホスピスか緩和ケア病棟も選択肢として考えたほうが良いと思ったので、父親が自分の病気を知って治療方法を選択してほしかったし、病名を知ることは父の権利だと母に説明をしました

 

けれども母親は、二人暮らしで、父の世話をするのは自分一人なのだから、癌でこれからどんどん状態の悪くなる父が助からないと説明されると、自分一人で支える自信がない、あまりに父がかわいそうだ、と言って病名告知には強く反対しました

折衷案として、まずは入院する時には癌と知らせないけれども、治療継続しているうちに知らせた方がいいと思ったときには、知らせよう、ということにしました

 

父には肺の感染症ということにして入院し、詳しい検査をしていきました

癌の進行は早く、胸水の貯留による呼吸苦もでてきたため、定期的に胸水を抜き、胸水の増加を抑えるために抗がん剤の胸腔内への投与をしましたが、その副作用に苦しみました

癌性胸膜炎によるものですから、出てくる胸水は本当に血の色で、父親

「こんなに血を抜いて大丈夫なんだろうか」

と心配してましたが、

「悪い血だから大丈夫だよ」

などと言うと、ふーん、というかんじでした

 

癌であることを知らないために、転院をすすめても、

「そんな大げさな」

「時間をかけたら治るんだったらこの病院でいい」

と言って、乗り気ではありませんでした

 

実家までは新幹線を含め5時間の距離だったので、私は連休があると帰郷して病院にお見舞いに行ってましたが、今後治療が長引いた場合、いつまで仕事が続けられるか考え始めました

入院から2か月たって、脳転移から、たまに異常行動が見られるようになって、病院から母親に夜間の付き添いを打診されたときに、母親一人ではもう無理だと判断して、仕事を辞めて実家に戻りました

理解のある職場だったので、すぐ有給で休みをもらえて、月末に退職できたので助かりました

 

その頃父は病院食は美味しくないと言って食べなくなり、3食母親が食事を作って持って行っていました

夜間は私が病院に泊り、母が朝に3食分の食事を作って、それを持って病院に来てから私が家に帰り、夕食後に私が病院に来て、母が家に帰る、という毎日でした

 

脳転移のせいもあったのかもしれませんが、後で思うと睡眠導入剤のせいでせん妄状態になる時もあったのではないかと感じます

夜間起き出して、ちょっと変なことを言い出して動き出すことがあり、そういうときは車椅子に乗せて病院内を散歩していました

自室内は歩いていましたが、少し歩くと呼吸苦がありました

「ここはどこなんだろう」

「お母さんはどこに行ったんだろう」

「どうして暗いんだろう」

と不思議がったり困ったりしていました

気性が激しくて頑固で我が儘なところある人でしたが、入院してからはそんなこともなく、せん妄状態になっても穏やかなので、私がのんびり話し相手になっていると、それで落ち着くことが多かったので、そんなに大変ではありませんでした

 

病院に泊るようになる頃から、ホスピスを探し始め、何か所か見学に行き始めました

病名告知をされてない父がホスピスに入ってどうなるか心配でしたが、主治医が緩和ケアに積極的でないことや、交代で付き添いすることに限界がくるのは目に見えてたので、住居に近い形のホスピスを探し、転院することにしました

 

転院について父は「知らないところに行きたくない」と反対しましたが、肺の病気なので空気の良いところに転地が必要だと兄弟で説得し、ホスピスの空室待ちとなりました

 

ホスピスから転入可能、との連絡があったので、私は一度荷物を取りに日帰りで東京に戻ることにして、早朝に上京しましたが、着いてすぐに、「呼吸が苦しいと言ってじっとしていない、立ったり座ったりを繰り返して、息が吸えないと言っているから早く戻ってきてほしい」と母から電話があったので、すぐ駅に戻りました

駅で主治医に電話して、「苦痛を取ってあげてほしい、セデーションをかけてあげてほしい」と伝えましたが、主治医は血圧低下や、会話ができなくなることを心配していました・・・とにかく本人の苦痛を一番に考えてほしいことや延命は希望しないことははっきりと伝えていたのに、何を言ってるんだ、今頃?という気持ちでした

 

母が私に戻るように電話した直後から、父の意識が朦朧とし始めたそうで、夜に病室に戻った時には、もう父の意識はなく、浅い促迫した呼吸で、モニター上心拍数も低下していました

 

昇圧剤の使用も希望しなかったので、そのまま自然に呼吸も心拍も血圧も低下していき、その日のうちに父は亡くなりました

 

病棟内に急変した患者さんがいて、看護師さんがバタバタとしていたので、お湯だけもらって、母と一緒に体を拭いて着替えをさせました

 

これ以上付き添いが長くなると、母も私も疲弊していましたし、私達が付き添えないことで、父が身体拘束を受けることの可能性を考えることも辛かったですし、呼吸苦などで長く苦しむのも、本人も家族も辛かったでしょうから、父の死はこれで良かったと思っています

先に亡くなったのが母でなくて父であったので、父は幸せだったと思います